2018年5月1日『写真の話をしよう』− 写真の見せ方を考える −
スライドショーと朗読原文
待って!言いたい事は今はまだ心に留めておいて。
武田湖斗の「写真の話をしよう」3つの問いかけ
まず1つめ
ー写真と音楽、今日のスライドショーについてー
写真と音楽を同期する事による快楽と、不自由さについて考えたい。リスクとリターン。
音とズレる事によるモニョモニョするこしょばい感じはどうして感じるのか。
初めっからズレた音楽なら、そのモニョモニョは何故無くなるのか。これは今回議論しない。たぶん脳ミソの話だから。
ちなみに今日のスライドショーの音楽は自作です。
自作でなくても、知り合いのミュージシャンや、有名アーティストの音楽を使用する事は作品の”見せ方“を、ある目指す方向への雰囲気作りとして作用させているケースをよく目にする。耳にする。
が!その音楽が広く周知されている程使われない。
西野カナを使った展示は見たことが無い。
まーうだうだと言いつつ、音楽まで自作してスライドショーを作って来たけど、そもそも写真に音楽って要らなくない?
でも自分にとっては必須。個展する際は必ずサントラを作ってきた。
音楽に写真は要らない?写真に音楽はどうですか?
写真と音楽を同期する事による快楽と、不自由さについて聞きたい。
2つめ
ー写真は実在する光景をカメラの機能で写し撮るもの、という概念についての疑問ー
写真は現実のコピーや、それに少しばかり手を入れたモノ(レタッチなどで)。
現実のコピーならそのコピーをコピーして自分の作品にしてしまう事は出来るのか。複写で作家性を獲得出来るのか、マルボロ!
写真の発表が法に触れる可能性がある場合(肖像権等)、撮影を生業とし光景をコピーする写真家はどこまで許されるのか。
例えば有名写真家佐内正史はドラクエ10で写真集を作ろうとしてゲーム会社から断られているが、写真集『銀河』ではうまく昇華してドラクエ写真が何点かある。
写真はどこからが「写真」と言えるのか。ゲーム画面と写真作品。
いわゆるボーダーライン。
レンズを通して写した静止画だけが写真なのか否か。
これもボーダーライン。
カメラで撮られた写真をiPhoneなどで自分の好きなように加工・トリミングされている事は往々にしてある。
光の(あと闇と)静止画が写真と呼ばれるのであれば、今は作家より多くの人間が写真を撮り、荒木経惟 アラーキーが写ルンですの発売で感じた危機感より更に上の危機感があるように思う。それはいま現在が巨大な自己肯定メカニズムを携えたいいね写真競争のSNSが幅広く使われている時代だから、、、そこに関わろうが関わらまいが、作家が見せている写真は、SNSで目の肥えた、作家とは名乗らない人間が見ていたりもする。
そもそもSNSでは写真家の写真よりも写真家の言葉の方が拡散する。バズる。
作家の見せ方はホワイトキューブでの展示や写真集の出版に限られてきている、のかもしれない。
ネット上での作品の発表は、なんだかあやしげな確固たる思想に基づいたものしか評価されないのか。
個人のモニターの大きさに左右される作品鑑賞のされ方をどう感じるよ?おい。
とかとか、写真だね と思えるボーダーラインについて考えたい。
最後の3 シンプルです
ー写真家は「しゃしん!しゃしん!」とやかましいー
!!!そもそも作家、表現者として何をしたくてその見せ方をしているのか!!!
今日はその事をお喋りしたくって、ここにいます。
それでは始めましょう。